唯識
本佛寺は苦悩の救済を求める分かりやすい観音信仰の普及だけではなく、難解で哲学的な唯識という仏教思想を研究しています。「私たちが体験している現世界は、すべて心の中のものであって、心の外には何も存在しない」という思想が唯識です。「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く猿沢の池」 手を打つことによって発せられる音の意味は、心の中の捉え方でいかようにも変化します。はたして、聞こえたと思った音自体も本当にあったものでしょうか。こんな当たり前の問いから、唯識は出発します。
音は物体の衝突や空間の急激な膨張で発生します。そして音源を取り巻く空気が振動し、その振動が鼓膜に到達し、鼓膜が共振し、その刺激が脳に伝わってはじめて私たちは音を認識します。しかし、伝わる過程で音の性質が変わります。認識する音が本当の音とは言えません。また、幻聴のように聞こえたと思っても実際は音が出ていない場合もあります。さらに、同じ音でも、聞く側の心の持ちようで、音の意味が餌の合図や、鉄砲の音、茶の要求などと変化します。
私たちは心の中にある認識によって物を捕らえますが、それが本当に存在するものなのか、音など始めから無かったのではないか、心のなかで感じ取っただけではないのかと考える思想が唯識です。仏教では認識できると思っている現実も、実は何事も実体のない「空である」と考えますが、その発展として唯識の思想が生まれました。
心の認識として五感の眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(触識)に意識を加えて六識があり、末那識、・阿頼耶識を加えて八識といいます。末那識とは曲げることのできない自我であり、阿頼耶識とは過去から受け継がれてきた経験、事象が蓄積している心の深層領域です。唯識思想ではただ心のみがあり、外界には事物的存在はないと考えますが、これと対極をなすのが唯物思想です。
唯物思想では世界は物質から構成され、精神、意識といった心は物質に基づくものであると考えます。その結果、物質界は時間的にも永遠で無限であり、世界は神などに創造されたのでなく、それ自体で存在すると考えます。 唯物思想は進歩的な階層の支持をうけて発展しました。すなわち、人間が自然を支配し、生産の発展を通じて社会の前進を促すと考えられたのです。ニュートン力学など科学的知識の進歩も唯物思想を発展させました。しかし、生物学者のクリックとワトソンがDNA理論を、物理学者ハイゼンベルグが不確定性原理を、アイシュタインが相対性理論を発表するなど、遺伝子工学や量子力学、宇宙物理学の発達によって逆にわが国では唯識思想を見直す機運が出てきました。
本佛寺は唯物の考え方も否定していません。1600年前にインドで生まれた唯識と発展目覚しい現代科学を融合させた本佛寺の新しい唯識思想が、現世で苦しむ私たちの救済になればよいと願っています。本佛寺では勉強会を行っています。共に新しい唯識思想を研究してみませんか。
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